伊豆の中心で、思いをさけぶ

地域社会のリアルな変化から教育・人生の本質まで、変化の激しい時代を自分らしく生き抜くための視点を届ける社会批評。

現在の体重は、10年前と比べて10キロほど減っています。
10年前といえば、夜遅くまで残業をしながらスナック菓子をつまんだり、頻繁に飲み会に参加したりと、不摂生な生活の中で「人生で最も体重が増えていた時期」でした。
元々やせ型だったこともあり、当時はお腹周りだけに不自然に肉がつき、自分でも格好が悪いと感じていたものです。

そこから少しずつ生活習慣を改め、特にコロナ禍を経て大人数での会食が激減したことも重なり、体重は順調に落ちていきました。
かつて買ったズボンはウエストにかなりの余裕ができ、久しぶりに会う友人知人からは「痩せたね」と声をかけられることが増えました。

1. 「自分のこと」なら対策できるけれど
単に歳を重ねて食が細くなったことも理由の一つですが、体型変化のもう一つの要因は、仕事で担う責任が重くなり、気苦労やストレスが増えたことにあると感じています。

自分自身のことだけであれば、経験をもとに事前に対策を講じ、トラブルを未然に防ぐことができます。
しかし、他人の行動や意識まで完璧にコントロールすることは不可能です。
「自分は自分、他人は他人」と割り切りたいところですが、組織を預かる立場である以上、そうもいきません。

「自分が当たり前だと思っていること」が、若い世代や新人にとっては全く当たり前ではない――。
世代間の価値観のギャップを痛感させられる場面は日常茶飯事です。

だからこそ、放置すれば想定外の大きなトラブルに繋がりかねず、言うべき指導や指摘はしっかりと伝えなければなりません。
しかし、ここで大きな壁にぶつかります。「パワハラと受け取られないよう慎重に言葉を選ばなければならない」一方で、「あまりに曖昧で遠回しな表現では、こちらの意図が全く伝わらない」というジレンマです。
組織を引っ張る者として、部下の振る舞いの責任まで自分に跳ね返ってくる現在の立場は、なかなかに胃が痛む毎日です。

2. 「理想的」な数値の裏にあるもの
たまに周りから「何かスポーツでもされているのですか?」と聞かれることがありますが、引き締まった筋肉がついたわけではなく、ただ余分な肉が落ちただけに過ぎません。
人間ドックの数値を見れば「問題なし、理想的な体型です」とお墨付きをもらえるので、健康上は良いことなのでしょう。

それでも、スーツのウエストが軽くなった分だけ、肩にのしかかる責任の重さを感じる今日この頃です。
数値には表れない日々のストレスや葛藤とうまく付き合いながら、明日もまた、誠実に向き合っていきたいと感じています。
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「世阿弥」の言葉として知られる「初心忘るべからず」――。
どんなに経験を積み、立場やキャリアを重ねようとも、自らが志を抱いた「原点(初心)」の思いを忘れることなく、目の前の仕事に真摯に向き合い続けることの大切さを説いた教えです。

言葉にすれば当たり前のことですが、長年同じ仕事を続けていくと、この原点はどうしても曖昧になっていきます。
人間は弱い存在だからこそ、いつの間にか「自分にとって都合の良い解釈や行動」へと流されてしまうのです。

さらに立場が上になればなるほど、周囲から面と向かって忠告や苦言を呈してくれる存在は減っていきます。
タガが外れ、自分を律するブレーキが利かなくなってしまうのです。
上配の顔色は伺い忠誠を尽くす一方で、自分より立場が下の人々に対しては横柄で冷淡に振る舞う――。
連日報道されている簗(やな)農林水産大臣をめぐる問題は、まさにこの「立場の奢りと原点の喪失」が招いた典型例と言えるのではないでしょうか。

1. 上に立つ者とは「偉い人」ではなく「責任を負う人」である
誤解してはならないのは、「上の立場に就いたからといって、その人間が偉くなったわけではない」という点です。
周囲からのちやほやに気を良くして増長してしまう人は、自らに与えられた役割の本質を理解できていません。

上の立場に就くということは、それだけ「重い責任を背負う」ということです。
組織や社会を自らの思い通りに動かせる権力を持つからこそ、私利私欲や自分勝手な都合で采配を振るうことは許されません。
現場で汗を流す人々のため、そして会社、地域、国家、社会全体に対してどのような貢献ができるか――その問いに答え続けることこそが、リーダーの使命なのです。

2. 「自分の力だけ」で上がってきたわけではない
なぜ、リーダーはそこまで自らを律しなければならないのでしょうか。
それは、今の立場を得られたのが「自分一人の努力や能力」によるものではないからです。

そこには必ず、日々の業務を支えてくれた周囲の協力があり、見守り引き上げてくれた上の立場の人々の評価と期待が存在します。
自分一人の力では到底届かない「他者からの後押し」があったからこそ、今の場所があるのです。

人は立場が上がると、どうしても自責の念を忘れ、視野が狭くなりがちです。
だからこそ、常に自分を支えてくれた多くの人々の期待に思いを致し、広い視野と謙虚な姿勢を持ち続けなければなりません。

「初心忘るべからず」の重みを今一度胸に刻み、簗大臣が文字通り国民から嫌がられる「ヤナ大臣」に成り下がってしまわないことを、そして私自身もまた自らの姿勢を省み続けることを深く切望します。
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「平等」や「正義」は、誰もが反論できない正しい理念のように思えます。
しかし、現実の組織や人間関係において、「本当に誰もが納得する平等など存在するのだろうか」と疑問を感じる場面は少なくありません。

なぜなら「何が平等か」という基準は、評価する立場や個人の価値観によって全く異なるからです。
ある人にとっての「平等な配分」が、別の人にとっては「理不尽な不平等」に映ることも珍しくありません。

人には誰しも、「自分はこれほど努力しているのに、あの人はやってくれない」といったマイナス感情が芽生えることがあります。
そうした不満や被害意識に囚われている時、人は相手の事情や気持ちを受け止める心の余裕を失ってしまいます。
互いに「自分こそが不平等の被害者だ」と主張し合っていては、分かり合うことなど到底不可能です。
「平等」という概念を振りかざして相手を屈服させようとするのは、大きな間違いと言わざるを得ません。

1. 「二つの正義」がぶつかり合う時
この構造は、「正義」をめぐる対立においても全く同じです。
立場や背景が違えば、それぞれが抱く「正義」の形も異なります。
そして厄介なことに、世の中の多くの対立は「正義と悪」ではなく、「異なる二つの正義」が真っ向からぶつかり合うことで引き起こされます。

「自分こそが正しい(正義だ)」と確信して相手を押せば、相手が引き下がるかといえば、決してそんなことはありません。
むしろ反発を生み、亀裂を深めるだけに終わります。

だからこそ私たちは、絶対的な「平等」や「正義」という抽象的な答えを一方的に目指すのではなく、泥臭く話し合いながら「お互いの納得感(折り合い)」を模索していく姿勢へと舵を切らなければならないのだと感じます。

2. 自らの「思い込み」を疑う柔軟性
「お互いの納得感」を見出す作業は、決して容易ではありません。
だからこそ前提として必要なのは、「自分自身の考えには、常に偏りや思い込みが含まれているかもしれない」と自覚しておくことです。

自分自身が感情的になっていたり、自らのこだわりに執着したりするあまり、無意識のうちに自分の耳に蓋をして相手の意図を遮断していないか――。
そうした自戒の目を持ち続けること。

「自分が正解を持っている」という傲慢さを捨て、互いに譲り合いながら着地点を探る粘り強さこそが、複雑な人間関係や組織を滑らかに動かしていく真の誠実さなのだと確信します。
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静岡県出身の競泳オリンピックメダリストと言えば、誰もが真っ先に思い浮かべるのが岩崎恭子氏でしょう。
1992年バルセロナオリンピックの女子200m平泳ぎにて、当時わずか14歳の中学生で金メダルを獲得し、「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と語った名スピーチは今なお語り継がれています。
この競泳史上最年少金メダル獲得記録は、30年以上が経過した今も破られていません。

先日、その名を冠した「岩崎恭子CUP」が開催されました。
静岡県で長く親しまれてきた伝統ある水泳大会に、地元出身の金メダリストである岩崎氏の冠を掲げ、協賛の募集からミズノスイムチームによる水泳教室、トークイベントまで幅広く企画・運営されています。

会場となった「静岡県富士水泳場」の入り口には、彼女の偉業を称えるレリーフが掲げられています。水泳に打ち込む子どもたちにとって、地元・静岡の大先輩が世界の頂点に立ち、今もなお直接指導や大会を通じて夢を与え続けてくれる存在であることは、どれほど大きな励みになっていることでしょう。自らの実績に甘んじることなく、後進の育成と水泳界の発展のために尽力する姿には心から頭が下がります。

1. 水泳王国・静岡の誇りと歴史
静岡県には、大規模な県大会が開かれる国際規格の素晴らしい水泳場が揃っています。
今回の会場である富士水泳場のほかにも、「静岡県立水泳場(静岡市)」、そして「古橋廣之進記念浜松市総合水泳場 ToBiO(浜松市)」があります。

この施設名にも刻まれている古橋廣之進氏もまた、静岡県が生んだ伝説的な存在です。
戦後の混乱期において世界新記録を連発し、「フジヤマのトビウオ」として人々に勇気と希望を与えた国民的ヒーローでした。
古橋氏もまた、現役退役後は日本水連の会長やJOC会長を歴任し、生涯を賭してスポーツ界の発展と後進の育成に捧げられた方です。

2. 「支えられた者」が果たすべき社会への恩返し
時代の頂点を極めた偉大な先人たちが、こうして次世代のために知恵と情熱を注ぎ続けるサイクルは、本当に素晴らしいと感じます。

華々しい実績を残したスポーツ選手たちの活躍は、本人の血のにじむような努力の賜物であることは間違いありません。
しかし同時に、そこに至るまでには家族や指導者、地域の人々をはじめとする想像以上の応援と支えがあったはずです。
だからこそ、そうした恩恵を受けてトップに立った者たちが、今度は「世のため、人のため、未来の子どもたちのため」に自らの経験や力を還元していく――。

それこそが、スポーツが持つ本当の価値であり、社会を豊かに循環させていく原動力なのだと、プールサイドで躍動する子どもたちの姿を見つめながら実感させられます。
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「応援に行く」――。
学生時代、部活動で大会の応援に行った記憶は誰にでもあるのではないでしょうか。
下級生のころは試合に出ることも叶わず、スタンドやベンチからひたすら声を張り上げ、手を叩いて上級生を応援する日々。
自分の学校が勝てば確かに嬉しいものの、自分がコートやピッチに立っていない時間はどこか長く感じられたものです。
自らが選手として出場している時は一瞬で過ぎ去る時間が、応援に回った途端に退屈に思えてしまうのは、ごく自然な感情だったのかもしれません。

同じ「応援」であっても、プロ野球やJリーグなどのプロスポーツ観戦となると話は別です。
自分が声を出そうが手を叩こうが実際の勝敗には直接関係ありませんが、あのスタジアム全体を包み込む独特の一体感や高揚感に飲み込まれるのは実に心地よいものです。
自分が「観客」という主役の一人として積極的にその場を楽しんでいるからこそ、充実感を味わえるのだと思います。

1. 勝ってほしいけれど「早く帰りたい」の本音
一方で、知人や身内の応援となると、また少し複雑な気持ちになります。
もちろん大切な知人には勝ってほしいですし、勝利の瞬間は心から嬉しい。
しかし、試合までの待ち時間がやたらと長かったり、自分の目当ての試合が終わったのに会場全体の進行都合でなかなか帰れなかったりすると、どうしても気持ちが削がれてしまいます。

大会を運営する側のご苦労や、人を集めて会場を盛り上げようとする努力は十分に理解しているつもりです。
それでも本音を言えば、「自分の応援が終わったら、サッと切り上げてとっとと帰りたい」と思ってしまうのです。

2. 年齢とともに訪れた「さっぱり感」
若いころの自分と比べると、何事に対してもあの頃のような熱狂や青臭い情熱を持てなくなったと感じることがあります。
冷めてしまったというか、冷酷になったというか……。

しかし、今になって思い返せば、若いころは自分を取り巻くあらゆる出来事に「何か劇的なことが起こるのではないか」と無意識に期待していたのかもしれません。
年齢を重ね、人生のさまざまな経験を積むにつれて、過剰な期待を抱くことがなくなり、物事を自然体で「さっぱり」と受け止められるようになっただけなのだと感じます。

熱狂に身を任せるのも悪くはありませんが、過度な期待を寄せず、距離感を保ちながら素直にその場を見守る――。
そんなさっぱりとしたスタンスもまた、歳を重ねたからこそ得られる一種の「大人の心地よさ」なのかもしれません。
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今、日本国内の膨大な古本や古文書が海外へ大量に輸出されているといいます。
その目的は、紙面をスキャンしてデジタル化し、巨大なAIに学習データとして読み込ませるためだとも囁かれています。

真偽のほどは定かではありませんが、これまで人類が数千年にわたって蓄積してきた紙媒体の知恵や歴史的資料が、急速にデジタル空間へと吸い上げられているのは紛れもない事実です。
Web上のデータにとどまらず、人間が生み出してきたあらゆる知の遺産を、AIが恐ろしいスピードで吸収し続けています。

確かに、膨大な情報がデジタル化されることで、従来はアクセスが難しかった情報が検索一つで手に入る利便性は否定できません。
しかし、すべてをデジタル化し、AIに委ねてしまって本当に大丈夫なのでしょうか。

1. 捨てられる「一次資料」と、すくい取れない「生の知恵」
何より懸念されるのは、スキャンを終えた後の「紙媒体そのもの(一次資料)」の扱いと散逸です。
データさえ取れば用済みとして、貴重な和書や地域資料が海外で破棄されてしまうとしたら、それは人類にとって取り返しのつかない大損失です。
とりわけ日本語の文脈や歴史的価値は、海外の事業者には真に理解しきれず、簡単に捨て去られてしまう危険性があります。
データの「根拠」となる現物が失われれば、情報の正確性や真偽を確かめる術すら失われてしまいます。

さらに、世の中のすべてのデータが電子化できるわけではありません。
地域に生きる人々の口伝や、人と人とのコミュニケーションの中で代々受け継がれてきた「生の知恵」や情緒は、紙にもWebにも残っていません。
そうした泥臭い情報を集め、掘り起こす作業には膨大な手間と時間がかかります。
AIやデジタルの利便性に慣れきった現代社会において、人々がそうした「手のかかる探索」を避け、目先の簡単な情報だけで満足してしまう風潮が加速していくのは目に見えています。

2. 「思考の放棄」がもたらす、スカスカな未来
あらゆる紙媒体やデータを飲み込み、AIはあたかも「全能の神」へと仕立て上げられようとしています。
しかし、最も恐ろしいのはAIの進化そのものではなく、「人間が何も考えなくなり、すべてをAIに依存してしまうこと」です。

AIに問いを投げかければ、一見すると見栄えの良い「それらしい答え」が即座に返ってきます。
しかし、自ら足を運び、一次資料に触れ、自分の頭で試行錯誤して導き出したものではない情報は、見た目が整っていても中身はスカスカな「空洞」に過ぎません。

便利さと引き換えに、自ら思考し探求する力を手放してはならない――。
AIが全能に見える時代だからこそ、私たちは紙の匂い立つ歴史や、人と人との温かな対話の中に存在する「本物の知恵」を守り、自らの頭で考え続ける愚直さを手放してはならないのだと強く感じます。
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匿名や無記名の陰に隠れて、個人や組織を過剰に叩く――。
そうした風潮こそが、今の社会を無責任で冷淡なものにしている根源だと感じます。

職場や学校などで「無記名アンケート」を実施することがありますが、記名・無記名という条件の違いは、言葉の質を根底から変えてしまいます。
人は誰しも、他者を褒めることよりも、不満や愚痴を吐き出す方が手軽にストレスを発散できてしまう側面があるからです。
匿名という安全地帯に身を置いた瞬間、人は容易に攻撃的になり、言いたい放題の言葉を撒き散らしてしまいます。

そして、そうした棘のある言葉を正面から浴びせられる受け手のストレスは、想像を絶するものがあります。

よく「どんなに手厳しい意見であっても真摯に耳を傾け、自らを改めるきっかけにすべきだ」という論調を耳にします。
しかし、人格否定に近い無責任な言葉を突きつけられて、素直に立ち直り改善へと向かえる人間などそうはいません。ただ心が折れ、疲弊していくだけです。

1. 「記名」の言葉に宿る責任と信頼
一方で、どれほど厳しい批判であっても、自分の名前を明かした「記名」の意見であれば受け止め方は全く変わります。
自らの名誉と責任を賭けて発せられた言葉には、相手に対する一定のリスペクトや「良くなってほしい」という真摯な意図が存在するからです。
そうした責任ある意見に対してならば、たとえ耳が痛くとも「自分にまだ足りない部分があった」と素直に反省し、真摯に向き合うことができます。

もちろん、業界や職種によっては捉え方が異なるかもしれません。
例えば、喉から手が出るほど顧客の声が欲しい店舗経営などであれば、どんなに無責任な匿名意見であっても「改善のヒント」として拾い集めたい場合もあるでしょう。

しかし、少なくとも人と人との信頼関係や組織の運営においては、「無記名は無責任の証」と言わざるを得ません。

2. 無責任な悪意から、心を守るために
だからこそ私は、過度に匿名意見の猛毒に振り回される必要はないと考えます。

信頼できる意見とは、自らの発言に責任を持つ覚悟(記名)から生まれるものです。
言葉の責任を放棄した無責任な声にいちいち心を削られるのではなく、誠実に向き合ってくれる人々の「名前のある声」をこそ大切にする――。
そうした毅然とした軸を持つことこそが、理不尽な攻撃から自分や組織を守り、前を向いて歩み続けるための確固たる防壁になるのだと感じます。
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