伊豆の中心で、思いをさけぶ

地域社会のリアルな変化から教育・人生の本質まで、変化の激しい時代を自分らしく生き抜くための視点を届ける社会批評。

カテゴリ: 生活

「定年を迎えたら、何をしようか」
「退職した後の人生を、どう歩もうか」――。
いつの間にか、そうした問いが決して遠い未来の話ではなく、リアリティを持って見え始めてくる年齢になりました。
60歳を迎え、それぞれの形で新たな一歩を踏み出していく先輩方の姿を眺めながら、自分自身のこれからについても自然と思いを巡らせるようになっています。

体が元気なうちは、いつまでも働き続けていたいというのが私の本音です。
私にとって働くこととは、単に収入を得るためだけでなく、「社会と繋がり続けるための窓口」に他なりません。
人間として生きる以上、誰かのため、社会のために汗を流し、何か小さな爪痕や価値を残せたら――そんな密かな願いを抱いています。

人と人とが深く繋がっていくためには、共通の目的や目標が必要です。仕事はまさにその核となり、日々のやりがいや生きがいをもたらしてくれます。
当然、ある程度は自由な時間が制限されますが、私のような人間には、むしろ適度な制限や役割があった方が心地よく動ける気がしています。
何にも縛られない完全な自由を与えられても、何をしていいか困惑してしまうのが目に見えているからです。
だからこそ、自分の体調や体力と相談しながら、生涯現役の気持ちで社会と繋がり続けていきたいと考えています。

1. 人と競わず、土と向き合う時間
では、仕事以外の「自由な時間」をどう過ごすか。
周囲の仲間が嗜むゴルフは昔から苦手ですし、誰かと勝敗を競い合うスポーツも自分には向きそうにありません(お誘いを受ければ顔を出すかもしれませんが……)。

誰かと競い合うよりは、自分のペースでこつこつと打ち込めるものがいい。
そう考えると、今手掛けている「農作業」は、これから先もずっと続けていきたい大切な時間です。
相手が人間でなくとも、生命の成長を願いながら日々手をかけて世話をしていくプロセスは、何物にも代えがたい楽しさがあります。
思い通りにいかない苦労もありますが、自分なりの工夫が実を結び、見事な野菜が収穫できた時の喜びはひとしおです。

ささやかな自己満足かもしれませんが、そうした達成感こそが暮らしの確かな生きがいになります。
しっかりと体を動かす運動にもなりますし、美味しく育った野菜を届けて収入になれば一石二鳥です。高いお金を払ってジムに通うよりも、ずっと健康的で豊かな時間だと感じています。

2. 人生を豊かに深めていくために
これからの人生をより豊かに過ごすためには、人間としての幅や奥行きを広げていくことが何より大切なのだと思います。
日々、目の前の忙しい業務に追われる毎日ではありますが、だからこそ意識して視野を外へと広げ、多様な世界や喜びに目を向けていきたい。

仕事を通して社会と繋がり、畑で土と戯れながら季節を感じる――。
そんな素朴で誠実な営みを積み重ねながら、自分らしいセカンドライフを少しずつ形作っていけたらと思っています。
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少子化という国難を止めるには、どのように社会の構造を変えていけばよいのでしょうか。
その答えを探るためには、かつて子どもがたくさん生まれていた時代――第一期・第二期ベビーブームの頃の社会構造を今一度振り返る必要があります。

当時の日本は高度経済成長期の真っただ中にありました。
誰もが明日の豊かさを実感でき、所得の上昇とともに生活家電が普及して暮らしが目に見えて便利になっていった時代です。
何より大きかったのは、「世帯主一人の収入だけで、家族全員を無理なく養うことができた」点にあります。
家計と時間にゆとりがあったからこそ、親は子どもと濃密に向き合い、温かい触れ合いを重ねることができました。

1. 共働きの常態化が生んだ「時間と貧困」の paradox
翻って、現代社会はどうでしょうか。
機械化やICT化、高度情報化が進み、労働環境や多様性の理解は大きく前進しました。
しかし、家族全体が享受できる「ゆとり」は激減しています。

いまや夫婦共働きはほぼ必須の選択肢となりました。
世帯収入を維持するために二人が働いても、学童保育や各種サービスへの出費が嵩み、金銭的な苦しさは容易には解消されません。
一方で、共働きが増えれば国に納められる税金や社会保険料は増えるため、政府はさらなる女性活躍や就労を推奨します。

ここに深刻なジレンマが生じます。
目先の労働力や税収を確保するために共働きを推進すればするほど、親が我が子と過ごす貴重な時間は削られていきます。
子どもとの触れ合いの減少が、近年の多様な少年問題や子どもの生きづらさに影響を与えている可能性は否定できませんが、明確な因果関係が証明しにくいことを理由に置き去りにされ続けています。

2. 超近視的な政策を超えて
少子化を克服できない限り、この国や社会の持続可能性は遠からず潰えます。
将来の担い手である子どもが減り続けることは、将来的な税収や社会保障の基盤が根本から瓦解することを意味します。
目先の労働力確保に固執するあまり、将来の国の存続を危うくする「超近視的な政策」は、今すぐ見直されなければなりません。

今真に必要なのは、国民が真の意味で豊かに暮らせる社会の再構築です。
それは単なる金銭的給付にとどまらず、「時間的なゆとり」を取り戻すことに他なりません。

一人(父母のどちらか)が正社員として働けば、家族を十分に養えるだけの賃金水準を確保すること。

共働きを選択したい人は自由に働ける一方で、家庭で子育てに専念する生き方を尊重し、決して肩身の狭い思いをさせない社会の寛容さを持つこと。

子どもの健やかな成長のためには、親がすぐそばで寄り添える「時間」が何よりの価値を持ちます。
子育てに対する経済的支援と時間的支援を両輪として整備し、「誰もが無理なく子どもを育てられる構造」へ変革することこそが、少子化脱却への唯一の道筋ではないでしょうか。

理想論と言われればそれまでであり、現代の経済的要因を考えれば実現へのハードルが極めて高いことも事実です。
しかし、この根本的な問いに向き合わない限り、私たちの未来が開けることはないのだと感じます。
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出先で「さて、何を食べようか」と暖簾をくぐる店を探す時間。
旅行ならその土地の名物や有名店を張り切って探しますが、ちょっとしたお出かけや日常の外出となると話は別です。
新しいお店を開拓したい気持ちはあるものの、万が一「外れ」だったらという不安や、お財布への負担が頭をよぎり、なかなか冒険に踏み出せません。

そうなると、結局たどり着くのは「失敗のないチェーン店」です。
全国どこでも変わらない安心の味と価格設定。
失敗したくない時の「無難な最適解」として、ついつい足を運んでしまいます。

1. 牛丼屋の手軽さと、カレーの絶妙な価格感
特にお米好きである私にとって、吉野家、松屋、すき家といった牛丼チェーンは強い味方です。
最近は値上がりの波が押し寄せているとはいえ、しっかりとお腹を満たせる外食としては、まだまだリーズナブルで頼もしい存在です。

かつては「CoCo壱番屋」にもよく通っていました。
しかし、トッピングやベースの価格を考えると「あの具材と量でこの値段か……」と、少し手が出しにくくなってしまったのが本音です。
今や牛丼屋さんでも十分に美味しいカレーが食べられますし、がっつり食べたい時は「かつや」のようなカツ丼チェーンも捨てがたい魅力があります。

2. ぐるっと回って、行き着く先は
とはいえ、外食が続けばそれなりにお金もかかります。以前のように「なんとなく外で済ませる」というのも、少し気が引ける時代になりました。

そうやって「コスパ良く、存分にお腹いっぱいに満たされるにはどうすればいいか?」と突き詰めて考えると、最終的には「家で何かを作って食べるのが一番だ」という結論に帰着してしまいます。

もちろん、自炊は手間がかかりますし、料理によってはそれなりの腕前や経験も必要です。
それでも、外食の価格と満足度を天秤にかけながら「やっぱり家で作るか、それとも牛丼屋に駆け込むか」と頭を悩ませる時間も含めて、日常のささやかな楽しみなのかもしれません。
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時折、無性にカップ麺が食べたくなる日があります。
手軽でお手頃、そしてあの独特の癖になる味わい。
忙しい時や、ふとジャンクな味覚が恋しくなった時のお昼ご飯には最高です。
ただ、普通のサイズだと少し物足りず、ついおにぎりを1個プラスしたり、最初から「大盛り」を選んでしまったりします。

もちろん、栄養面や健康を考えれば、毎日のように食べるわけにはいきません。
普段はなるべく控えるように意識しているのですが、スーパーのカップ麺コーナーにズラリと並ぶ豊富な種類を目にすると、つい心が揺らいでしまいます。
新商品やご当地ラーメンなど、あのラインナップの多さ自体がひとつの大きな魅力なのです。

1. コスパとPB(プライベートブランド)の攻防
しかし、最近の物価高はカップ麺の世界にも押し寄せています。
「えっ、カップ麺でこの値段……?」と驚くような商品も増えてきました。
だからこそ、買う時の「お値段」と「コスパ」は最重要事項です。

基本的には、比較的安く手に入るドラッグストアで購入することが多いのですが、どうしてもコンビニで買いたい時は「プライベートブランド(PB)」のものをチョイスします。
コンビニのPB商品は価格設定が良心的で、「これなら納得」と思える絶妙なラインを突いてきてくれるからです。

2. 年齢とともに変わる「選び方の知恵」
……とはいえ、この年齢になると、食べた後にほんの少し胃がもたれるのも紛れもない現実です(笑)。
連日食べるなんて到底できません。

特にラーメン系は、美味しいスープを最後の一滴までついつい飲み干してしまい、後で「塩分を取りすぎてしまったな……」と罪悪感に苛まれることになります。
そのため、最近はスープを飲み干す心配のない「カップ焼きそば系」を選ぶことが増えました。
もっとも、焼きそばも味付けは濃いめで塩分は高めなのですが、スープを飲まない分だけ「自分への言い訳」が立つのです。

結局のところ、食べるのは月に1回か2回程度。日頃は朝・昼・晩と栄養バランスに気を配った食事を心がけています。

……なんて、あれこれ理屈を考えながらこの文章を書いていたら、なんだかまた猛烈にカップ麺が食べたくなってきました。
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スーパーに買い物へ行くと、あらゆる食材や日用品の値上げを実感します。
かつては手軽だったコンビニの価格設定が高くなり、今やドラッグストアやスーパーへ足を運ぶ機会が増えました。
日々の生活防衛を考えると、少しでも安い商品を探してしまうのは自然な心理です。

私自身、これまでは食べ物に対して何よりも「満腹感」を重視し、味よりも安さと量の多さを優先して選ぶことが多くありました。
賞味期限間近の値引きシールが貼られた商品を見つければ、お得感から積極的にカゴへ入れます。

しかし最近は、実質的な値上げ(価格は据え置きで内容量が減る「ステルス値上げ」)の後に、さらに価格そのものが引き上げられるという二重の値上げ(負のスパイラル)が続いています。
かつてのように「安くてお腹いっぱいになる食品」を探すこと自体が難しくなり、時に実施される増量企画に頼らざるを得ない現状があります。

1. 「安さ」だけに囚われると、感性と目が鈍る
しかし、そうした「コスパ重視」の選び方ばかりを続けていると、ふと恐ろしさを感じることがあります。
それは、物そのものが持つ本当の良さや付加価値を見抜く感性が、少しずつ鈍ってしまうのではないかという危惧です。

高い商品には、高いなりの明確な理由が存在します。
厳選された原材料、職人の手間暇、健康への配慮、あるいは極上の美味しさといった「プラスアルファの価値」がそこには込められています。
安さや量だけに目を奪われていると、そうした作られ手のこだわりや本物の品質を正当に評価し、感動する心のゆとりを失ってしまうかもしれません。
良いものは良いと素直に認め、時に頑張った自分へのご褒美として豊かな味覚を楽しむ姿勢も、人生には必要です。

2. 買い物は「未来と生産者への応援票」
さらに重要なのは、「買い物とは、その企業や生産者の姿勢を応援する投票行為である」という視点です。

海外製の安価な輸入品が手軽に入る時代ですが、だからといって国産品や地元・地域で丁寧に作られたものを手に取らなくなってしまえば、日本の生産者や地場産業は衰退してしまいます。
日本人が一生懸命に汗を流して作ったものを購入し、足元の経済や文化を買い支えていく視点は、これからの時代に欠かせない「持続可能な選び方」と言えるでしょう。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。
生活を切り詰めるあまり、過度にケチ臭い考え方や目先の安さにばかり固執してしまうのは、精神的な豊かさを損なうことにも繋がりかねません。

節約すべきところは賢く締めつつも、価値あるもの、応援したい生産者、そして自分自身の豊かな経験のためには、しかるべき場所でしっかりとお金を投じる――。
そんな、メリハリのある温かなお金の使い方を心がけていきたいものです。
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戦後、日本は世界も驚くほどの劇的な経済発展を遂げました。
その過程で私たちの暮らしは劇的に便利になり、生活習慣や文化のあり方も大きく様変わりしました。
しかし、あの高度経済成長期という「右肩上がりの時代」に形成された生活習慣は、人口減少と経済の縮小が進む現代の日本に、本当にフィットしているのでしょうか。
私たちは今、かつての成功体験が生み出した習慣の持続可能性を、冷静に検証する時期に来ているのかもしれません。

そもそも、高度成長期以前の日本には存在しなかったものの、国が豊かになったことで肥大化し、定着した風習や行事は少なくありません。
右肩上がりの豊かさを前提とした消費型・拡張型の生活スタイルを、この先もそのまま引き継いでいくことは極めて困難です。

1. お盆と墓じまいが映し出す「時代の歪み」
その象徴的な例が、お盆休みの過ごし方や供養のあり方です。
ご先祖様を敬い、お墓参りをするという精神そのものは、時代を超えて受け継ぐべき大切な文化でしょう。
しかし、過酷な渋滞に耐えて遠方へ移動する帰省ラッシュや、形式化した親戚集団のしきたりは、年々形骸化しつつあります。
少子高齢化によって親族の繋がり自体が細くなり、普段取れない長期休暇を単純に「家族旅行」として過ごす人々が増えているのも、時代の必然と言えます。

また、近年増えている「墓じまい」のニュースも、過渡期の歪みを鮮明に物語っています。
高度成長期にお金と人に恵まれていた時代、人々は競うように立派なお墓を建てました。
しかし、急激な少子化が進んだ結果、それを引き継ぐ子が居なくなり、最終的に永代供養へ切り替えざるを得なくなっています。
「数十年後の人口動態」を見据えて行動することの難しさを痛感させられる事例です。
歴史上最も人口が多く、最も金銭的に豊かだった時代の「過剰なスペック」を、現代の私たちがそのまま維持し続けることは不可能なのです。

2. 「戦前の暮らし」に学ぶ、持続可能な生き方
では、これからの縮小社会において、私たちはどのような基準で生活習慣を整えていけばよいのでしょうか。

そのヒントは、高度成長期より前――つまり戦前やそれ以前の日本人が重ねてきた、身の丈に合ったコンパクトで持続可能な暮らしの知恵の中に隠されているはずです。
無理に形式や規模を維持しようとして疲弊するのではなく、温もりある「本質(先祖を想う気持ちや人との交流)」だけを残し、過剰な負担となっていた装飾や形式を脱ぎ捨てていく。

過去の失敗や時代の変化を直視し、「今の時代に本当に必要なものは何か、手放すべきものは何か」を一人ひとりが選択していくこと。
肥大化した時代の遺産を賢く畳み、新しい時代の身軽で豊かな生き方を再設計することこそが、今私たちに求められているのではないでしょうか。
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基本的な前提として、人間は一人ひとり、みんな違います。
たとえ兄弟姉妹であっても、似ているところや、共通する行動パターンの中に何らかの法則性が見つかるかもしれない、という程度のもので、完全に一致することなどあり得ません。
だからこそ、子育てのやり方においても、万人に共通して通用するような「王道」など存在せず、その子の個性に応じて、接し方をその都度「調整」していくことが必要不可欠なのだと思います。
もちろん、先人たちの経験則に基づく「子育ての工夫」や「良い取り組み」がないわけではありません。
しかし、それがすべての子に「絶対」に通用するとは言い切れないのです。

1. 母親にとって、男の子は「異星人」のような存在?
そして、個人差はあるものの、子育てを経験する中で多くの親が痛感するのが「男女の差」です。
特に母親にとって、男の子を育てるということは、女の子を育てる場合とは全く異なる体験として感じられることが多いのではないでしょうか。
かつて自分が子どもだった頃の経験や感覚が、男の子には驚くほど通用しない場面によく直面します。「なぜここで、こんな反応をするのだろう」と、首をかしげ、立ち尽くしてしまうことも多々あります。
それが男の子の、予期せぬ面白さや可愛らしさなのかもしれません。
しかし、こちらの思い通りにならない日々が続けば、仏の顔も三度まで、つい腹が立ってきます。

「何度言えばわかるの!」
一日の大半を注意することに費やし、声が枯れてしまうことさえあります。
この戸惑いや疲労感は、実際に体験してみないと、その本当の意味では理解できないのかもしれません。
特に、ご自身が女姉妹の中で育ち、我が子も女の子しか育ててこなかった方にとって、男の子の世界は未知の連続で、その難易度はさらに高く感じられることでしょう。

2. 「理解できないこと」を、そのまま受け止める力
しかし、子育てを通して私たちが学ぶべき最も大切なことは、そうした「自分とは全く違う考えや気質を持った人間が存在する」という事実を知り、それをそのまま受け止める(受容する)ことではないでしょうか。

そこに境界線を引いて、隔絶してはいけないのです。
人はなかなか、こちらの思い通りには動きません。それは、自分の一部であるはずの、子どもでさえそうなのです。
相手の行動やすべてを完全に「理解」することはできないかもしれない。
けれど、理解できないからといって拒絶するのではなく、理解をしようとする「努力」だけは、決して手放してはならないのだと思います。

「理解不能」な息子と向き合う日々は、私たち自身が「自分とは違う他者」と共に生きていくための、最も身近で、最も過酷で、そして最も尊い学びの場(修行)なのかもしれません。
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